のどかな晴れの国の景色と、草花と生き物を神と共に守るお年寄り、こどもたちと旅人たち。誰のものでもない猫たちが刺繍糸のようにそれぞれの関係をステッチして海辺の町の中をキルトのように繋げていく。正解がない課題でも話し合い続ける場を設けられる豊かさに小さな政治の希望と温もりを感じて心に温かい光を灯してもらえたようです。
ひとの暮らしに猫がいる。
猫がいるからひとが来る。
排除とか共存とかの一線を決めないところに平和があるのかなあ。
嵐の日でも猫が腹をだして眠るのはひとの傍らなんだなあ。
今、この社会の喜怒哀楽はゴツゴツしているけれど、
この作品の喜怒哀楽はなぜか柔らかい。なんでだろう。
共生は、容易いものではない。子どもも、大人も、住民も、旅人も、参拝者も、ドキュメンタリー作家も、それぞれの思いで境内に集い、小さな命と向き合う。そのプロセスが「猫視点」で見えてくる、肉球のようにやわらかな町の記録。
小さな港町の再現しえない一回性の出来事。そこには、ネット上を飛び交う、文脈から切り離された「情報」とは異なる、地に足の着いた人びとの「知恵」が映り込んでいる。
神社という場で、猫を媒介に、ひとと動物、植物が織りなす小宇宙が広がっていく。
提起されるのは「自分たち」の境界線をどこに引くのかという問いだ。「自分たち」とは集落の人間か、外の人間も含めるのか。わかりあえない人間はどうするのか。人間だけでなく動物も含めるのか。
映画はやがて、他者と棲み分けるのではなく、ともに「棲みあう」地平とはどのようなものなのか、という新たな問いを拓いていく。
時に厄介者扱いされたり、癒しを求められたり、観光客の呼び込みを期待されたり、そして、捨てられたり――高齢化する小さな集落の猫たちの姿を追うほどに、こんなにも重層的な社会が見えてくるなんて。
どうして想田さんは「猫の映画」なんか撮るんだろうと不思議に思っていたけれど、これは最初から最後まで非情なまでに「人間についての映画」だった。猫が目の前にいる人間の本性を容赦なく映し出してしまうとはこの映画を観るまで知らなかった。
長い年月、この石段を登り降りしてきた人々。
その足元を、猫たちがするすると行き交い、人々を繋いでいる。
人間、猫、魚、植物…あらゆる生きものの命が光る瞬間がここにある。
植物、微生物、昆虫、動物、人‥‥
種も、個も、みな、体感する世界が違うので、共生ってとても難しい
でも地域でみんなで暮らすわけだから諦めるわけにはいきません
生きとし生けるものが幸せで、安らかで、自由でありますようにと願い続けて、謙虚かつ気楽に生活したいと改めて思いました
想田は、世界から消えつつあるものを映し出す。それは神聖な場所であると同時に、日常生活の場でもある。愛くるしい猫たちの背後に映し出されたのは、季節や日々の生活、生や死、そして、うたた寝のサイクルである。
想田の控え目で愛らしい映画は、自由な猫たちと優しい人々に対する、豪華な贈り物である。
想田は自身の「観察映画の十戒」に忠実で、いつもの道具を使う。その結果、彼の映画は一貫性と反復に価値があることを証明してみせる。オルタナティブなビジョンを作り上げるのではなく、想田は思慮深く、慈愛に満ちた、誰もが再現することのできる世界の見方を示すのだ。